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Y'ALL, AMERICAN ULTRAS REALLY UNKNOWN?
SURE IT OUGHT'A BE A DAGGER FOR BRITS CULT.

NYから来たエクアドルサッカー史の重要人物

「ジョージ・ルイス・キャップウェル・クローニン」

ジョージ・ルイス・キャップウェル・クローニン (George Lewis Capwell Cronin)はアメリカ合衆国ニューヨーク州オーレーン市(/ˈliæn/ OH-lee-ann)出身の電気技師、電機会社管理職、セミプロ野球選手、スポーツクラブ経営者。野球のポジションはキャッチャー、バスケットボールはガード。セリエ・A・デ・エクアドル全史において歴代2位の14回優勝、コパ・リベルタドーレスの1960年から2019年までの通算勝ち点ランキングにおいて、出場全209クラブ中20位という実績を持つ同国屈指の名門「クルブ・スポルト・エメレク」 (Club Sport Emelec)の創業者。 最盛期で身長5フィート11インチに体重が91kgもある巨体で、組織における運営力と指導力がある人物だった。サッカー経験なし。

生涯

ジョージ・キャップウェルは米国政府の国庫に支えられた公立学校で初等・中等教育を修了した。彼は幼年期から少年期まで大のスポーツ好きで、アメリカン・フットボール、ボクシング、ベースボール、水泳などに熱中し大会にも出場していた。彼の競技規則への理解の高さは、一緒にプレーした仲間達からもてはやされた。1921年に高等教育を修了した時にジョージは「体育教師になる」という、明確な将来の目標ができていた。パナマ運河建設プロジェクトに技師として参加した経験のある父親はこれに反対し、ジョージをニューヨーク州トロイにあるレンセラー工科大学に強制入学させた。この大学ではベースボール部で突出した能力を発揮し、休日にはトロイ市内の家電製品工場でアルバイトをしたが、あまりに多忙すぎて嫌になるような時期だった。それから2年間、毎年夏にはセミプロのベースボール・チームの選手としてプレーしていた。
1925年にジョージは社会人となり、キューバのシエンフエゴスの電気会社の工場に勤務していた。その翌年、彼にオーガナイゼーションの素質がある事を見抜いた会社はジョージをエクアドルのグアヤキル支社に建設部門管理者として転勤させた。1926年半ばには彼の監督下で会社の3階に福利厚生用のジム、プールが作られた。そしてポンセ・ルケ食堂の前に小規模な複合スポーツ施設も完成し、そこにはバスケットコートとプールがあった。若い社員がこぞって施設で汗を流しているのを見たジョージは、ほとんど全くプレーした経験が無いであろうサッカー部門を含む総合スポーツクラブを社内に作るというアイデアを思い付いた。クラブの名前は会社名Empresa Eléctrica del Ecuador(エクアドル電機)からEmとElécをとって"Emelec"にした。いま現在エメレクが「電球」「電機」などの愛称でサッカーファンに呼ばれているのは、歴史の必然である。

CSエメレク誕生

1929年4月28日にクルブ・スポルト・エメレクは誕生し、同年6月7日にグアヤキル・スポーツ連盟への登録手続きを済ませ地元の3部リーグから活動を始めた。6月28日にリーグ公式戦を初めて戦い、ヒムナスティコ・エクアドルに2-1で勝った。なお当時のCSエメレクはジョージの大好きなベースボールの部門も保有しており、この日は同じ場所でバルセロナSCのベースボール部と対戦。ジョージは捕手として出場した。1933年のグアヤキル市実業団リーグでエメレクは優勝している。
1940年には自治体からモントゥファル通り・ゴメス将軍通り・サンマルティン通り・キト通りに囲まれた、見事なまでに正方形の土地を獲得。ベースボール部の試合用スタジアムの建設が始まった。1942年9月8日は残存する土地所有権が自治体から100%エメレクの手にわたり、翌1943年にはベースボール・ダイヤモンドを成す4つの塁が完成し、会場の名は「エスタディオ・ジョージ・キャップウェル」に決まった。1945年10月25日のこけら落としでエメレクは「オリエンテ」と対戦し、11,000人の観衆を集めた。なお、このスタジアムがサッカーに使われたのは同年12月2日が最初であった。
1929年から約15年エメレクの捕手としてプレーし続けてきたジョージは、1946年に発電機・動力機の生産工場に転勤する為にエクアドルを離れ、パナマに移住する事が決まった。同年9月22日のサヨナラ試合には、やはり捕手として出場。試合後はスタンドを一周してエメレクの野球ファン達から労いの拍手が送られた。当時グアヤキルでは野球が相当な人気を得ていたことは確かで、サッカー部門がグアヤキル最上位リーグで優勝したのは1946年の事であった。プロサッカーリーグ「セリエA・デ・エクアドル」が創設されたのは、その11年後である。半世紀以上が経過した現在エメレクはエクアドル国内で名門として不動の地位を築いており、コパ・リベルタドーレスは優勝経験は無いが通算勝ち点が239でCAベレス・サルスフィエルド、エストゥディアンテス・デ・ラ・プラタ、CRフラメンゴ、サントスFC、SCインテルナシオナウ、LDUキト、CAサン・ロレンソ・デ・アルマグロ、ラシン・クルブ・デ・アベジャネーダよりも多い。

死去

ジョージは9年後の1955年にパナマで人生初の脳卒中を起こし、職場復帰するまで3か月間入院した。 1958年にキャップウェルは再度グアヤキルに居を構え、1962年には2度目の結婚もしているが、しかし2度目の脳卒中で倒れた事がある。1967年にまたエクアドルを出て、65歳の頃カリフォルニア州サン・ディエゴに住んでいたことが記録されている。それが彼の終の棲家となり、1970年1月17日に3度目の脳卒中を起こし同地で亡くなった。エクアドル電機社はその後長く存続したが、業績不振で2008年に政府の介入を経て複数の企業集団に分割され、実体としては消滅した。

【動画】ニューヨーク州の都市Oleanの発音

  

情報源

  1. «George Capwell llegó a Guayaquil hace 90 años». Consultado el 23 de marzo de 2019.
  2. «La vida de George Capwell, fundador de Emelec, llegará a los cines y a Netflix». Consultado el 23 de marzo de 2019.
  3.  Keyes, David; Rigazio, Emilio (2007-06-07). "George Capwell, the American Founder of Emelec"Culture of Soccer. David Keyes. Retrieved 2010-11-30.
  4. "George Capwell, padre de los eléctricos" [George Capwell, father of the Electrics]. Idolos del Astillero (in Spanish). Archived from the original on 2010-11-13. Retrieved 2010-11-30.
  5. Christian (2007-10-27). "George Lewis Capwell: el padre de EMELEC" [George Lewis Capwell: the father of EMELEC]. emeleXista.com(in Spanish). emeleXista.com. Retrieved 2010-11-30.
  6. 翻訳元最終履歴 es.wikipedia:George Capwell 23:30 23 abr 2019‎ (UTC)
    en.wikipedia:George Capwell: 11:28, 9 September 2018 (UTC)
    en.wikipedia:Olean, New York 18:30, 19 August 2019‎ (UTC)

 

Roberto Carlos - Amigo 1974

女が勝って男が負ける国

日本時間7月8日午前、CONCACAFゴールドカップとFIFA女子ワールドカップ決勝が行われた。男子は宿敵メキシコと、過去3回優勝の女子は初の決勝進出を果たしたオランダと対戦。現地時間7月7日17時、まずパリのパルク・ド・プランスで女子サッカー世界一を決めるファイナル開始の笛が鳴った。スコアレスのまま前半を折り返すと、69分にアレックス・モーガンがPA内でコンタクトを受け米国がプッシングを主張。主審は今まさに話題沸騰中のVARでPKを与え、オランダのゲームプランを破壊した。主将メーガン・ラピノーがこれを右隅に決め、大会得点ランキング首位タイに並ぶ先制ゴールを奪う。

トランプ大統領から「愛国心が感じられない」と大会中に批判を受けた33歳のストライカーは、両手を大きく広げ「見たか?」と言わんばかりのポーズをとる。一気に均衡が崩れ、8分後には左DMFローズ・レイヴェルが中盤の底から大きなスペースを独走。オランダの最終ラインの前からミドルを決め2-0とした。接戦が続いていた米国だが、限られた時間帯に一気に畳みかける試合運びで挑戦者のオランダを退けた。そして、何の業界であれ世界一等賞であることを誇りに思う合衆国民は、これまで何度もやってきたように全米各地で大いに盛り上がったのである。「サッカー不毛の地?何それ?」と言わんばかりに。もうそんなレッテルを聞いたことのない世代も多いのだ。

現地時間7月7日21時15分、シカゴのソルジャー・フィールドで北中米カリブ海男子王者を決める決勝戦の笛が鳴った。これまで何度も繰り返されてきたように、米国の地でタイトルを賭けて行われた北中米クラシコは在米メキシコ人に簡単にホームジャックされた。しかし米国男子は合衆国民の援軍の少なさにも関わらず、ポゼッションとフィードにセットプレーも巧みに使い分けて、相手ゴール前で何度も決定機を作る。

チャンスの質で上回りながら米国が決められないでいると、73分にメキシコがパスワークから入れたクサビをロドルフォ・ピサロが流し、ドス・サントスが狙いすましたループシュートを米国ゴール左サイドネットに沈めた。残り時間を耐え抜いたメキシコは連覇を飾り、過去6回優勝の米国の追随を振り切って最多8回目の優勝を決めた。何の業界であれアメリカ人に勝つことを非常に喜ぶメキシコ人は、自分達が暮らす国であるアメリカの地で、自分達が暮らすことをあきらめた国の優勝を喜んだ。

ウーマンズ・チームが世界チャンピオンになった数時間後、メンズ・チームが北中米カリブ海選手権の決勝に敗れる。近年メジャーリーグ・サッカーが拡大を続け、サポーター文化も日増しに発展している米国男子サッカー界だが、それはあくまでもクラブチームの話。自国開催でヒスパニック住民にホームジャックされ、そして隣国に負ける。

それはアジア東部において1980年代頃まで目撃されていた現象で、「フザけんなよ俺たち先進国だぜ。あいつらと違って一流国だ。なんであんな奴らに負け続けるんだよ」とボヤく。「あんな奴ら」が負担する肉体労働で国が成り立っている現象は、今のところ解決が難しい。難しいことを考えたくない、簡単に気持ちよくなりたい。だから優勝の可能性が高い方を観に行く人が多い。


ポートランド・ティンバーズはじめメジャーリーグ・サッカー各クラブが、米国独立記念日を祝うツイートをした。なおポートランドのペルー代表アンディ・ポロは、3-0で勝利したコパ・アメリカ2019準決勝に途中出場している。政治の首都をホームタウンに持つDCユナイテッドは言及こそしないものの、7月4日の試合前に花火を打ち上げる告知をした。カナダの3クラブは2日前のカナダ建国記念日に関するツイートも出している。


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